かつてのインターネットでは、ブログ、掲示板、Q&Aサイトなどが、個人や組織の経験を公共的な知識として蓄積・共有していた。
しかし、いつからかインターネットにはAI生成物、量産型のSEO記事、転載コンテンツが増え、検索しても似たような情報ばかり表示される。
情報の絶対量は増えているのに、質の高い情報や、実際に役立つ一次情報にはたどり着きにくくなった。
情報はクローズドなコミュニティに移動しつつある。Discord、Slack、会員制コミュニティ、オンラインサロンなどに専門的な知識や経験が集まりやすくなっている。
閉じた場所のほうが炎上や荒らしも避けやすく、わざわざ前提の話をする必要もない。記事にするほどではないが確かに有用な知識が、そこでの会話を通じて受け渡される。
別にクローズドなコミュニティに移った人たちが情報を囲い込もうとしているわけではないと思う。
1990年代末から2000年代にかけて、個人サイトを作ったり、オープンな掲示板でやりとりをしたのは、会話を公開したかったからではなく、当時の標準的なやり方がそうだったからだ。
それらはどんなに局所的でも検索クローラーが巡回できる「パブリックなウェブ」だった。副産物として、それは検索可能な公共知になった。
今、人々が同じ熱量で知識や経験を交換している場所はDiscordなどのクローズドなコミュニティになった。しかし、クローズドなコミュニティの中で交わされた会話は、システム構造上そもそも外部から不可視である 。
誰も何も閉じようとしていないのに、閉じた結果になる。閉鎖は選択ではなく、道具の既定出力である。
もっとも、長い歴史の中で見れば、知識が閉じた集団に囲われているのはむしろ通常の状態で、それが個人ブログや掲示板へ大量に溢れ出し、公共知として蓄積された2000年代前後が例外だったのかもしれない。
だとすれば、いま起きているのは回帰ということになる。
インターネットは情報を失ったのではない。情報が存在する場所と、それに到達できる経路が分離したのである。
情報格差は「検索リテラシー」から「所属資本」に移りつつある。
従来の情報格差は、主に次のようなものだったように思う。
- インターネットへ接続できるか
- 必要な情報を検索できるか
- 情報の信頼性を評価できるか
- 情報を利用できる環境や技能があるか
かつては、情報格差のかなりの部分を「接続環境」と「検索・評価の能力」の差として説明できた。
しかし現在は、そこに「どこに情報があるかを知っているか」という問題が加わった。
- 情報が存在するコミュニティを知っているか
- そこへ入るコネがあるか
- 既存メンバーから承認されるか
- 内部の文化や文脈を理解できるか
- 継続的にウォッチする時間があるか
「所属資本」とは、知識そのものではない。その知識が流通している場所にアクセスするための、人間関係、信用、招待、会費、時間、文化理解の総体である。
検索リテラシーは独学でも習得し得るが、コミュニティへの所属には、時には他者の承認が必要である。
これからの情報格差は、検索リテラシーだけでは説明できない。どのコミュニティに所属しているか、あるいはできるかの資本の差になっていくのかもしれない。
情報が生み出されなくなったわけではない。
有益な知見として確実にそこに存在するにもかかわらず、外部からはほとんど観測できないインターネット上の「ダークマター」として、それぞれのコミュニティの底に不可視のまま堆積し、時には公共知にならないままコミュニティの解散と共に消滅していく。








